2009 05/27
- 福澤諭吉、インフルエンザにかかる
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インフルエンザも一段落の見通しでホッとしています。ところで、インフルエンザは福澤の時代にも何度か猛威をふるっています。特に明治23,4年の流行は大変なものだったようです。東京府下では多くの警官がインフルエンザにかかって、健康な者が休みを取れないとか、省庁も高官が休んで仕事がストップ、裁判所も審理が停止、新聞によっては職工がほとんど休んでしまい休刊になってしまった、というようなこともあったそうです。
明治23年(1890)12月26日、福澤インフルエンザ発病。その後、長男一太郎、妻お錦が次々に発症、年開けて、2日に妊娠中の次女お房も発熱(発熱中ながら5日に無事出産)、5日に三女お俊、さらに四女お滝、五女お光、長女お里、四男大四郎と続き、お手伝いさんたちも次々に感染してしまいました。6日間の発熱に、ただただ静養するしかなかった福澤は、ようやく熱が下がると、それをまめに手紙であちこちに報告しており、「一家の大乱」「二十余年来一家の大厄年」「飯を炊く者もこれなく、家事乱れて麻の如し」などといった言葉が見えます。福澤は2月に入っても衰弱甚だしく、なかなか本格復帰できなかったようです。
このインフルエンザ禍で、過日ご紹介した白洲次郎の祖父・白洲退蔵も罹病、彼のお殿様で福澤と親しい兵庫・三田藩最後の藩主・九鬼隆義はこの時に亡くなっています。福澤の手紙によれば東京市中の病人は「百万」、医師は「三度の食事する暇もこれなし」、元旦以来香典を包んだ家だけで10軒以上と書いた手紙もあります。遠方にいる次男捨次郎に、亡くなった人を列挙した手紙もありますが、その中には「植木屋常の女房」などというのも入っていて、福澤の交遊関係が見えて興味深いものです。
あまりこんなことを書き連ねても縁起が悪いですね。幸い日本は福澤の適塾以来の親友・長与専斎の尽力もあって「衛生」の意識が高まり、120年余りを経た今日では、マスクマスクの街中を欧米から奇異の目で見られるほどになっています。備えあれば憂い無しで、落ち着いて今後に備えたいものです。
写真は「禍」の舞台となった福澤の自宅。

